松山由維子の作品
祢津 悠紀 

 松山由維子の映像作品のモチーフには、極まった一貫性や執着のようなものが認められるとは言えない。しかし、抽象映像であったりプライベートフィルムのファウンドフッテージであったりする、その一見違う形式群の作品の中に、彼女のまなざしの生々しい一つの方位が残されている。そもそも彼女は映像という表現媒体を離れたことはない。彼女を惹きつけ続けるこのメディアの独自性は、その作品にどう影響してきたのだろうか。松山の作品を紹介しながら、その視覚世界の印象を通じて、彼女のまなざしの焦点を求めてゆきたい。

  松山の映像のなかでまとまった作品群と呼べるのは 『花』 『FIELD』 『ながめ』 など、揺れ動く光を撮影したシリーズである。これらは多くが10分に満たない短編だが、『ながめ』を左右に鏡面状に映写するかたちでインスタレーション展開された 『SCENERY/DISTANCE』 などその抽象的な運動の描写が20分ちかくに及ぶものもある。これは一種異様なまでの網密な視覚体験であって、動揺する液状の光が流れつづける単純なそのディティールに意味性が現れ、物語性の匂いまで立ちこめるほど鑑賞者の眼を奪い迫ってくる。
作者は 『SCENERY/DISTANCE』 を「動くロールシャッハテスト」と冗談めかして呼んだが、そのめまぐるしい意味の現出と消失に立ち会う鑑賞者の眼にとって、むろん軽い冗談ではすまされないのだ。そしてこれらの作品が撮影される現場もまた、作品そのものなみに壮絶なまなざしの張りつめる場であったことを書いておきたい。傾斜した硝子板の下に強い電球を据え付け、硝子板の上、その表面に密着するほど、カメラのレンズを近づける。レンズと硝子板のわずかな隙間にある被写体は、小指の先ほどの大きさしかない水溜り。そこに墨と塩の粒を落とすと、水溜りの中でそれぞれの粒子どうしの反応が始まる。混ざり合い反発し合う光と影がマグマにも似た重く厚い不規則な動きで多重のフィルターを生成し続ける、その様を鑑賞者は作品として見ているのだが、大陸の成りたちにも似たその絢爛な運動はたった水滴のなかで起こっていたことだったのである。その撮影現場の、簡易にして魔術的な装置はカメラを覗き込む松山の身体を含めて、まるで巨大な顕微鏡のシルエットを思わせる。それら抽象性による表面現出の作品群に似て別の風合いを備えたものが 『Lines toward the Sunset』 である。これはいくつものぼんやりとした光球が画面を斜めに通過しつづけるイメージが主調となり、彼女の作品群のなかでも格別音楽性の高い小品だ。これは電車の車窓を通過する灯を撮影し、速度を変えフォーカスを外して、線路の軋みを思わせるリズムが響き、どこかはかなげな心象を浮かばせている。前述の作品群に比して 『Lines toward the Sunset』 は感傷的で詩的である。ピントの外れた景色は、それがどこであり何が起こっているのか一瞥ではわからないのだが、そこにちょうど電車に乗っているときのちょっとした空隙の不安のような情動が表現されていて不思議な人の匂い、なまなましさがある。

  いままでは抽象的モチーフを扱ったものを紹介してきたが、松山には実写をベースにした具象の作品もあり、それが 『Inside』 『追憶』である。 『Inside』 は松山の処女作品であり、その9年のちに撮られた『追憶』は抽象的な作品の制作を経てふたたび実写により戻った感がある。これらの作品は、しかしながら(劇映画のように)フィクショナルな物語性をもとめての実写作品ではない。そのことはその被写体が自分の顔(の精密なスケッチ)と、自身をふくめた家族の肖像であることから明らかだ。被写体はつねにアイデンティティに直にかかわるモチーフであり、記号である点が重要であった。そして同時に、これら作品において突出しているところは、多くのセルフドキュメントの作品においてテーマとされる、自我の達成と確認というテーゼがはじめから拒否されていることである。
『Inside』 では作者自身の顔を描いた布が指でつつかれて不気味に歪み、人工的で痛ましい表情をつくりだす。あるいは 『追憶』は、そこに幾層にもなって映り揺れる「家族」が作者自らのものだという説明が一度もなされないという点において、内面吐露や自己陶酔によりかかりがちなセルフドキュメントの定律から距離を置き、あえて宙づりの不安を遊ぶような作品だ。あたかも「自分」や「家族」とは説明の一種にすぎぬのだと言い切らんばかりであり、ねばりつくような自我の葛藤から超然した視座をもちつつも、そこには有象無象に対する、どこかはかなげなまなざしが透徹している。その静けさに、私は虚を突かれるようなおののきを覚える。彼女は実写の作品を通して、映像のなかの自分や取り巻きの環境、世界や現実と呼ばれるそれらが映されたものでしかないということを確かめ直しているのかもしれない。松山の実写作品はポートレートの編集と撹乱をもって主に自我と存在に関わる深い意味での認知の成立点を問題にしているといえるのだが、それらの創作は自己への(との、)陶酔をともなうものでもなく、また、分析的な冷たい作業でもなかった。彼女の作品に見られる自分と他者とのさかいめを手探るような、奇妙な孤独は何か。無限の意味付けと記号化の絡みつきの中で日々の私を生きている私たちにとって、そうした孤独はきっと失われた故郷のような場所であり、同時に底の知れない恐怖でもあるだろう。松山の視線はその距離ならぬ遠さのはるか向こうから放たれる。今後もこうした実写作品は、断続的にであれ繰り返しつくられつづけるだろうと私は予感する。しかし今はただ、彼女の次の焦点を待つことにしたい。

  ここまで松山の既作品をごくあっさりと概観してきたが、それらに通底するのはモチーフでもテーマでもなくある種のまなざしの強度であった。松山は「まなざしの先にあるのは何か。動く光の層の彼方にあなたは何を見ているのか。」と言う。本当に、わたしが見ているものとは何か。わたしたちが見つめざるを得ないそのものとは。

  『花』をみている途中、岡本かの子『金魚撩乱』の場面片が浮き閃き、意外な印象の一致に私を驚かせた。『金魚撩乱』は異様に艶かしい光を放つ金魚に魅入る男と女の出て来る小説だが、小説家の眼差しはけたたましい色彩をもつ金魚でなく、むしろ金魚の棲むどろどろの沼水にフォーカスされている。金魚は腐った藻でつくられた黒水を覗き込むきっかけにすぎないのかも知れない。松山の『花』『FIELD』『ながめ』という流動する光を映した作品たちにおいても、さらにその他のモチーフを扱ったものにおいてもまた、その本質は見通しのきかない闇溜りを覗きつづける視線である。そのさなかひとすじのわずかな光を求めて瞳を凝らす視線は、ナルキッソスが水面に注いだ破滅へと安住を捉えるたぐいのものではなく、見られたものの表面をじりじり焼き続けるような眼光だ。そこには燃えるような情動があり、実は解答など得られなくてもかまわないようなごく簡明な人間の好奇心が脈打っている。前述の松山の言葉を、私は、まなざしでは『その先にあるもの』を捉えることなどできないかのようないいかただ、などと思った。何を見ているか?何を意味しているか?何を発見し了解するのかすら、そのことは「いいたいこと」ではないのかもしれない。ただ、ただ、ぎらぎらと輝く瞳によって視てしまうという狂気。そこに松山の曇りのない美学がある。私は彼女の作品を息をのんで覗きこみながら、その好奇心に眼球そのものとなった強ばった躯の屈折を自分にもわけあたえられたように感じる。


祢津 悠紀 (ねつ ゆうき/文筆家、作家) 2008